解説
創作についての解題
私の創作にとって解題とは、明確に作品の内容を説明するといった類のものではない。むしろ私のなかでの未整理な事柄について、自覚すべく必ず通過しなければならない手続きだといえる。つまり私自身にとっても充分に対話的であり、謎解きなのである。
以下の解題は、個展のため、もしくは何らかの審査用として、必要に迫られ筆をとったものが殆んどである。それらは私自身が理解すべきものであるのは勿論だが、他者の理解を促すためのものという性格がむしろ強い。よって整理する段階で元々の文章が持っていた“熱”が放出され、かえって謎解くべき核心から遠のいてしまったのではないかと思われる部分がある。他の表現があるならば、いずれは改稿すべきであろうと考えている。
とにかく、一つ一つの解題はつまるところ氷山の一角である。言葉にならない核心の周辺をかろうじて照らし出しているというのが現状であろう。読み手にとっては退屈で、しかも同じ言い回しを散見してしまうものなのであろうが、拝読して頂けるのであれば、私にとって何よりの幸いである。
(以下の解題にジャンプします)
- 個展用宣誓文(2007年)
- 展覧会タイトルについて(2007年)
- 私はこうして絵画を選択した(2004年/同年加筆修正)
- 現代絵画と私(2002年)
- The perspective of sight (アクリラート別冊2002掲載 2001年/2002年加筆)
- The light in darkness (アクリラート別冊2002掲載 2001年/2002年加筆)
- 個展用宣誓文(2000年)
- 個展用宣誓文(1996年/2002年加筆修正)
「個展用宣誓文」(2007年)
これらの絵はモチーフの再現を試みたものであり、且つ、モチーフの再現を度外視し、抽象的要素として扱ったものでもある。つまり、人類が絵を発明した当時の根源的な衝動と、絵画のマテリアル(今回の場合は、絵の具のみならず、箔やボールペン・マーカー類を含む)やマチエールを自律させようとする欲求(これについても乳児的発達段階への回帰の欲求という意味では、根源的といえるが)とを同時に満たそうとするものである。この二つの事柄は本来相容れないものなのだが、作品を発想・制作する過程で、それぞれの作品にふさわしいベクトルができ、個々の作品にふさわしいかたちがおのずから成されるのである。その在り方は、シンプルさ・明快さとはおおよそ正反対な状態にある。
この作品制作に対する極めて受動的な態度は一体何に基づくものなのか。それは結局のところ幼い頃から様々な文化に心が晒され続けてきたため“根っ子がない、不純な状態がむしろ自然だと思えること”に他ならない。だが、その雑食性ゆえに人が絵画に取り組むことの本質が何であるかが、刹那的ではないかたちで私の前に現われる予感がするのである。
「展覧会タイトルについて」(2007年)
物心ついた頃から、私は「世界」との繋がりを本能的に求めてきた。「世界」との繋がりとは何なのか、的確に説明できる自信はないが、それは乳児が生まれて初めて自分は此処にいるのだと認識できたときの感覚や、自分の存在が霞んで消えていく眠りや死の恐怖を克服するために必要な感覚に類するものなのではないだろうか。私にとって描写という行為は、「世界」との繋がりをそのつど確認し、生きていることを実感するためのものに他ならない。そう考えてきた。
以前から私は、ギリシャ神話のイカロスというキャラクターを描写という行為の比喩として、テキストや作品のタイトルに用いてきた。この展覧会のタイトル「不確かな太陽、不確かな空、不確かな距離、不確かな翼、不確かな眼」とは、イカロスが、より高く太陽を目指して飛翔しようと試みる、実現不可能な愚行のように、絵の中に「世界」の再現を試みるも、“みること”の質感を精確に再現しようとすればするほど、絵としては異形のもの -もはや何をしようとしたのかさえ忘れそうなくらいシフトする- にならざるを得ないという、戸惑いに似た諦観をあらわしたものである。
結局は、生を実感することさえ容易ではないのだと、認めなければならないのか。だが一先ず、“確かなことは何もわからないのだ”と、わかることに一縷の希望を見出すこととしたい。
「私はこうして絵画を選択した」(2004年 /同年加筆修正)
私が写実表現を基礎にし、作品を制作するという立場をとって5年余りが過ぎた。当初と比べ、私自身の主張に矛盾が出てきた部分が少々あるが、5年も経ったのだから変わって当然と考えるべきなのか、それとも理論的な不備があったと考えるべきなのかまだ私には決断できない。現時点での私の趣味がそうであるとしかいえない。それが普遍性を有するかどうかの判断には、更なる時間を要する。しかしながらその事実を検証することで、創作に対する根本的な問題の幾つか、例えばなぜ私は絵画というメディアでの表現を選択したのかというような曖昧な部分に多少の鮮明さを得られるのではないかと思う。
私が何かを作り出すことに人生における重要さを見出したのは、10代半ばから後半のことである。その当初から眼前のモチーフを描写する上で形をどう捉えるかという問題、例えばものと空間の境界をどう画定するのかというような問題に想いを馳せていたように記憶している。だからこそジャコメッティが思索した造形上の問題をクリアできない限り、立体における写実の表現については一種の思考停止状態にならざるを得なかったのだろう。だからという訳ではないが、私は平面に活路を見出そうとした。三次元において引き受けられない矛盾を二次元でなら包括可能だと思いたかったからである。当時既にキュビズムを知っていたからこそその想いは強まった。だが鈍感な私にもその後の悲劇的な展開は予感できた。なぜならキュビズムは天才ピカソでさえ投げ出した形式だからである。それでも私は、呑気にも石の上にも三年の精神で“研究”を続けた。その探求が結局は、月並みな発想ではあるがセザンヌまで回帰した上での抽象化表現の再構築('96年制作分まで)の試みだったといえる。
しかしその後私が更に西洋的な写実表現への回帰を欲したのは、イメージの抽象化にも根本的には写実的臨場感への欲求があるのではないかと、確信ともいえる仮説を立てたからに他ならない。すべてを描き切りたいと欲したのは、前ルネッサンス期の絵画様式にみられる“神は細部に宿る”という宗教観に由来するのではなく、全体感を保つためのみにバランス主義に陥るという、既存の写実表現と同じ轍を踏みたくなかったからである。色彩においても印刷の4色分解に基づくプロセスを可能な限りそのまま再現し、なるべく私の趣味が介在しないよう注意した。
この方法で理想的な写実が実現したように思えた。だが皮肉にも「すべてを描いた」筈なのにそれは真実の一側面しか現していないように感じられたのである。もしかしたら私は最高のものをつくり得たのかもしれない。にもかかわらず私自身がそれを「みる」目を持ち得ていないのではないか。そのような疑念に駆られもした。仮に「神」と呼ばれるものが存在するとしても、そのヴィジョンを現出する役割は私には荷が重過ぎる。
とりあえず私は「神」の意見を採り入れつつ、自分自身のリアリティーを表出できるよう表現を模索している。まず絵画における色彩は、絵具に依存している以上その皮膜の在り方が写実表現の本質的な部分を左右すると私は考えた。モデリングにおいては従来の定義を超えて、例えばデザイン的な平塗りとの併用が、むしろ触覚的な面のみならず視覚的な面においても有効なのかもしれない。描写そのものにおいてもすべてを描き切るのではなく、“間”の概念により「見せる」のではなく「感じさせる」描写が実現しつつある。それらの試みが計らずも我が国において歴史的必然性のないまま導入された、西洋的写実の毒を中和する役割を担うかもしれない。そのような期待を感じずにはいられない。
かつて岸田劉生は写実の在り方に私と同様の葛藤を見出し、その短い生涯において充分過ぎる程のカタストロフィーに往きついた。そのような結末がみえるからこそ回避すべきなのか。しかしながら差し延べられた手はしっかりと掴みたい。私はこうして絵画を選択したのである。
「現代絵画と私」(2002年)
私の絵画は、具象のモチーフを写実的に描写し、画面を構築する過程で起こる無意識的な抽象化をイメージとして表面化し、定着させたものです。
1997年以降、私はこのようなスタイルで作品を制作していますが、ここに至った動機(再確認してみた上での)として、三点述べたいと思います。
一点目は、西洋絵画におけるセザンヌ以降の絵画の抽象化に対し、今一度「世界」をどう表現するかというその原点に立ち戻り、絵画をより活性化させる方法を考察したかった、という点です。その手段として、デフォルメのようなイメージの抽象化はせずに(抽象化は起こるのですが)、画面形態は四角いフレームであるという前提をまず解除してみた訳です。稀に誤解があるのですが、今述べたことは、エルスワース・ケリーのシェイプドキャンバスの作品のようなものとは、本質的に異なります。なぜなら、ケリーの絵画がイメージに従属していないのに対し、私の絵画はフレームがイメージに侵蝕される、または構図が生まれる前のイメージをそのまま定着させたものだといえるからです。
二点目は、セザンヌ以降の絵画の抽象化により、様々な可能性や美的事実が提示された訳ですが、それらは平凡に生活している多くの人々にとって、未だに「当たり前」に成り得ていないというもう一つの事実が頭から離れなかった、という点です。例えば、ゲルハルト・リヒターは、自らの作品を通じ、イメージはすべてが虚構であるという事実を証明しました。しかしながら我々人間は、現在もなお多くの政治的、戦略的イメージに翻弄されつつ日々生活しています。美術家からの警告が人々に届いているとは思えない以上、以後創作に携る者は、より人々と同じ地面に立ち、メッセージを発しなけれはならないといえます。私は極めて素朴な視点で「世界」を捉え、イメージが虚構であるという事実を受け入れ難くとも受け入れざるを得ない葛藤を作品の中に表現し、絵画を鑑賞する人々に共感して頂きたいと考えています。
三点目は、二点目と関連していますが、造形作家にとっての「世界」を再提示したいという欲求、作品を鑑賞する者にとってのそれに共感したいという欲求が、現代美術の変遷の過程で、宙吊りにされたまま放置されていると感じたため、今はその状況に真面目に向き合うべき時代なのではないかと考えた、という点です。私にとっての写実描写の欲求は、本能に近い状態で存在するので、その心の状態を否定せず、正直に向き合い、その訳を考えていくという方法が、より建設的で本質的だと考えています。
これらの動機の下で、今後も制作を継続していく訳なのですが、その上で次の事柄に留意しなければならないと考えます。それは、前述した私の心の状態が、どのような歴史的、文化的背景に依存しているのか、ということです。また、それが定義できないとするならば、どう多義的であるのか、把握すべきだということです。言い替えるならば、「私はこうだ」と簡単に定義付けるべきではなく、ましてや「結局多義的なのだ」とすべての判断を放棄してもいけないということなのです。このような状況の中、私は何をしようとしているのか、私がすべきことは何なのか、判断するのは困難を極めます。しかし私は、この弱々しく混沌とした主張の中に、他の何とも交換できない私自身の核があると確信しています(その核があるからこそ、嫌でも社会や美術の在り方に抵抗感を持てる訳です)。その核を以って成される選択による、冒頭に述べた“無意識的”なものを第三者として見詰めることで、現代絵画に対する問題意識を持ち続けていきたいと考えています。
The perspective of sight (アクリラート別冊2002掲載 2001年 /2002年加筆)
私は絵画制作において対象物を観察し、描写するという方法をとっています。人は理性を有して初めて人間になると私は考えていますが、理性に対する懐疑が決して突飛な事柄ではない現代において、そのような方法をとる訳は、理性は単に疑い否定するだけの対象ではなく、批判的に活路を見出そうとする事でより建設的に人間性を深められるものであると考えるからです。そもそも絵画はそういった事に適したメディアであると私は考えています。
客観的に存在するしないに関係なく「世界」は私という主体と共にありました。私が幼児の頃、テレビの中のヒーロー然り、動物園の動物然り、手当たり次第に描きました。その行為は確かによく言われるように所有欲の表われだったのかもしれません。しかしそれ以上に生まれて三、四年の幼児は「世界」との繋がりを欲していたのだと現在の私は考えています。その欲求がある以上、人間の奢りであると理性を否定しても何の解決にもならないのです。
私は「世界」と繋がるための媒介者として絵画を位置付けています。絵画が媒介者となるためには私自身の主観が可能な限りにおいて客観性を帯び、つまり結果的に主観以上のものにはなり得ないが、より突き詰められた主観を以って形成されたイメージが必要だと考えています。そしてその絶対条件として可能な限りのデフォルメの排除、構図の排除を手段として考えています。実作品においては画面の形態の歪みが、それらの手段を方法化したものとして表面化しています。
「世界」を通じ作品、そして私自身を認識し、作品を通じ私と「世界」の関係を考える。その事の背後には様々な人種、民族の風土、歴史、文化がパースペクティヴとして広がっているのです。だがそれは私自身が主体的に意識を働かせなければ決して姿を現わさないとても重要な課題です。あのジャクソン・ポロックは晩年に自身の作品について「これは絵画と呼べるのだろうか」と自問自答したそうです。それは抽象絵画を単にバランス的、感覚的に処理していたのではなく、彼が「世界」との繋がりについて、そして先述したパースペクティヴについて想いを巡らせた故の苦悩であったと私は解釈しています。作品と作家の関係、そして世界観は、現代においても今後もそうあってこそ建設的で意義深く、だからこそ苦悩を抱えるだけの価値があると私は考えています。
The light in darkness (アクリラート別冊2002掲載 2001年 /2002年加筆)
対称物を描く事の不可能性、つまりいくら写実的に描こうがそれは対象物そのものではなく絵画でしかないという事実が、絵画が絵画として抽象的に収斂して行く事を意味しているのは、20世紀の絵画史からも明らかです。しかし抽象化が目的化される事は,オールオーバーを契機として深化したフォーマリズムのように観念的なトートロジーに陥る羽目になります。だからこそ抽象化が避けられない事態であるのなら、「世界」と繋がるという私的にリアルな体験が、客観的要素と抽象的に変換された要素との対比(≠デフォルメ)によって表現できるという仮定に基づいて制作すべきなのだと思います。それは東洋の水墨画や花鳥画の表現を思い浮かべれば明らかです。
私が写実を制作の手段として用いるのは、無意識に起こる絵画そのものの抽象化、つまり抽象化が生まれる瞬間を「世界」との媒介者として表現したいからとも言えます。だが無意識故に捉え難く、その機会はいつ訪れるのでしょうか。例えば以下に述べるような事柄が暗闇に差し込む一条の光なのかもしれません。
以前BBCの幼児向け教育番組をたまたま観ていて、ある場面に目を留めました。番組の中でイギリスの子供たちは対称物を描く時、まず線ではなく色面を形作るように描いていたのです。私が知る限り日本の子供たちは、多少の相違はあるもののまず線を使い対象を捉えようとします。これらは何を意味するのでしょう。
幼児の絵画は単なる身体運動を意味する描きなぐりではなく、親の身振りを観察した上での方法的習得によるものです。つまり幼児の親がどのような世界観を身に付けているかが幼児の行為の内容を左右するのです。更にその親の親は…と根本的に考える時、人種、民族の風土、歴史、文化の総合的なパースペクティヴは、ゲシュタルトとして私の前に立上がるのです。そしてその網目の一つ一つは主体たる私から完全に等距離に存在し、ゲシュタルトは私を取り囲む球体の内壁として形作られるのです。
ここにヒントがあると確信しています。
個展用宣誓文(2000年)
私が今までに開催した展覧会総てに通底している事柄は、私が今ここで作品を発表しておかなければ、他の誰もこのような問題提起をしないのではないかという、どうしても意識から拭いきれない危機感に他なりません。今回の発表を決意したのも、見る事と描く事はどこまでイコールであり得るのか、形態のデフォルメや構図そのものを絵画から排除しようとするとどうなるのか、誰も見せてはくれない世界を提示しなければならないという想いから、私は迷宮への入口と知りつつ、進まずにはいられなかったからです。
人生を生きていく事(この場合は絵を描いていく行為)は、自身を取り巻く風土、歴史、文化を背負っていく事を意味しています。その事実に向き合うとき、私は私自身の個が滅する様な苦しみを感じながらも、そこに繋がり、関係しようと欲するのです。
では、その私自身の個は何を原風景としているのか、勿論断定は出来ないものの幼少の頃より自然と身に付いた物を見、描き、対話する習慣に他ならないと感じます。これは洋の東西を問わず、様々な歴史的位置において試みられてきた事柄なので、私自身の在り方を考える上でなおさら無視出来なかった訳です(これが実は精神的汚染である可能性も否定出来ないのですが)。
つきつめて考えるならば当然そこには「世界」をどの様に認識し、表現するかという哲学的な問いが発生するわけですが、その事は私自身の表現のためというよりはむしろ、表現に値する意義を問うために安易に定義付けられるべきではない事柄であると感じます。その意義とは、作品制作の動機が単なる個人的な事柄に基づくものではなく、かといって単なる伝統(価値体系)の継承に終わるものでもない、前者且つ後者両要素が混在し得ている事を指すものであると、私は考えています。今回表出したこれらの作品は、そうした容易に解決し得ぬ問いに対する一つ一つの「形」であると考えて頂きたいのです。言わばそれらは「前形式」とでも呼べるのですが、表現として収斂してしまう前にそれらが発する声を一つ一つ聞き漏らさずにおく事こそが、現在の私が果たす事の出来る唯一の役割といえるのです。
個展用宣誓文(1996年 /2002年加筆修正)
美を愛でる行為は至福の体験であるが、その美意識を他者に伝える時、葛藤と疲労感を伴う事がある。描く行為という性は、時として不幸であるが、その状況にどっぷりと身を浸す事でしか、美の体験を他者と共有出来ないというのも事実である。美意識を共有するという幸福感が、更なる行為の原動力となる。やはり確実にこの行為により救われているのである。
私は自然の中にある、恣意的な形態を「みる」事を、作品制作の態度として取っている。その点で少なくとも自己充足的ではない。「みる」行為で未知のものが表出してくる。それは言うならば、深遠なる一瞬としての美である。漸近線上でギリギリまで近付いても定まりきらないフォーカスは、あたかもギリシャ神話のイカロスの様である。
クレタ島脱出の為、父ダイダロスが作った、蝋でつなぎ合わせた翼で、空を飛び、生き延びる為に脱出したにもかかわらず、父の忠告を忘れて高く飛び過ぎ、太陽の熱で蝋が溶けて、海に墜落死したという、アンビバレントな様が、その目的達成の不可能性において似ている。そして、彼の美しさは、空を飛ぶという神々しさよりもむしろ、彼の生の欲求の破綻が、見て取れる事に因るのだろう。飛行の高度がピークに達した一瞬、エロスとタナトスの融和があったに違いない。
(未知の)世界に魅入られてしまったという点において、私もイカロスと同様である。ただし、漸近線上の自分の位置を自覚せねばならないという点において、私はイカロスの様な少年のままではいられないのである。
その様な気持ちを抱えてまでして描く絵画とは、私にとって何なのか。私がどの様な態度を取ろうが、総て絵画という概念に収斂する。それは「変化」と呼んでも良いのだが、その様な能動的なものではない。むしろ「みる」行為との「ずれ」と言ってしまった方がぴったりくる。その「ずれ」を受け入れ且つ、冷静でいられるなら、イカロスは墜落を免れるのではないか。
絵画という人工の翼。その在り方は、画家としての私の振る舞いを体現する。近代以降の価値観をもってするまでもなく、色彩を認知する為には作品形態は平面的であったほうが適当である。だがイメージを決定するための自由度においては、純粋な平面として成立させる訳にはいかない。私は物質至上主義者ではないが、イメージというものは触覚的な質を孕んでいるものだと考えている。故に「窓」(?)は歪みを起こすのである。ここにおいて形式主義を背景とした、反面的な畸形性を自覚出来るが、形式主義同様タナトスに抱擁されないために、この畸形性を目的化してはならないと思う。
未知の嵐の中に精神を晒す行為は危険である。大事なのは、世界にギリギリまで近付き且つ力を蓄える事である。世界が眼前に開け続ける限り、私に絶望はない。敢えて言うならば、精神を晒す行為は、他者と美の体験を共有する為の私の義務である。
→作品タイトルについて 「イカロス体」